昭和43年06月22日 朝の御理解



 私共はよく「神習う」という言葉を使います。神習わせて頂くという「神習」ね、本部の学院生の方達が、金光様のお取次の御様子を、お広間の一隅でじっと、こう神習しております。神習わせて頂いておるわけですね。私はあの、最近あのこの夏期修行が始まりまして、特にその事を痛感するのですけれども、金光様の御信心をさせて頂く者はね、教祖の神様の御生活態度というものを神習わせて頂くという事。
 信心生活という事を言われるが、信心生活とは教祖様の御生活態度がそのまま私共の生活の上に形の上だけでも習わせて頂くという事。それが信心生活だと愈々実感せなおられない感じが致します。成程信心生活とはという事が色々に言われます。ですけどもその信心生活という事がその色々に言われますけども、例えば久留米の初代は一切が神様の御物としての頂き方考え方をもっての生活と言う様に、仰っておられますですね。
 それは色々に言われて参りました。けれどもあのそれをよく煎じ詰めますとですね、教祖の神様のご生活態度というものを、私共の生活の上に移すという事、所謂神習わして頂くということ。それがいわゆる是はね金光教の信心でいう信心生活というのはそれだという事。よその宗教じゃない他の信心じゃない、ね、教祖の神様はを通して天地の親神様のお蔭を受けられるようになったのである、ね。
 「此方金光大神あって神は世に出たのであるから、金光大神が言う事を違わぬ様に」とこう仰言る様に、その金光大神の言われた事、金光大神が身を持って示された事。それを私共が神習する神習わせて頂くと。それが私は信心生活だとそれを神習わして頂きよれば、それぞれの信心生活はこうだと言われて来たことが、皆そういう答えになって出てくると思うのです。ね、だから教祖の神様のあられ方を抜きにしては、信心生活は生まれないという事です、ね。
 そこで御理解四節をひとつ読んでみましょう。御理解四節です「此方金光大神あって、天地金乃神のおかげを受けられるようになった。此方金光大神あって神は世に出たのである。神からも氏子からも両方からの恩人は、此方金光大神である。金光大神の言う事に背かぬ様よく守って信心せよ。まさかの折りには天地金乃神と言うにおよばぬ。金光大神助けてくれと言えば、おかげを授けてやる。」とこう仰言る、ね。
 これは今日私が実感しておる事。金光様の信心とは、ね、金光様の御信心で云うところの信心生活とは「これだ」。教祖の神様の御信心のあられ方、生活のお態度というものを、私共は神習わせて頂くという事だ。ね、ですから、まあまさかの時に「金光大神と言えば助けてやる」、と仰言るその事でも、ね、金光大神の教えてくださる事にそむかぬようなあり方になっておらなければ、駄目だという事がわかります。
 ただ無条件に金光様だけじゃいかん。ね、それは実際事実の問題といたしましてはですね、そういう信心生活がでけていなくても、金光様の御信心の御神縁のはしくれにでもおらして頂きますと、いよいよん時には金光様がでるのです。ね、金光様がいつも心の中にありますから出るのです。ですから、それでお蔭は頂きますけれども、ね、金光大神の教えて下さることをそむかぬ様な生活を日々生活させて頂いておれば。
 これはもう絶対だという事になるのですね。ね、ここの所が大事ですねえ「金光大神の言うことにそむかぬようよく守って信心せよ。ね、まさかの折には、」だからここの所を守らずしてから「まさかの時には金光大神」では本当言うたらこれはちょっと違うという事です。ね。「はあまさかの時に金光様」。もう金光様がでたと、夢の中でも金光様がでる、ということは有り難い。ね、
 私は確かにお夢の中にでも災難なら災難、一つの怖いことがあると夢のなかでも「金光様」を唱えとりますますもんね。いかに私共の心の中に何時も金光大神があるかということを感じます。それは有り難いことなんだ。それでねそのおかげは受けましてもですね、本当の意味での助かりという事がね、「金光様」と言えば助けて下さるという、その一つの条件の様にここにはこう言うてございますね。
 「金光大神の言うことにそむかぬように、信心せよ、まさかの折りには天地金乃神と言うに及ばぬ。ね、金光大神、助けてくれと言えば、おかげを授けてやる」と仰言られる。ね、皆さん、ここの所を本気で大事になさらないけません。そこで、今日はどういう事になって来るかというと、なら金光大神のあられ方というものを神習する日々、神習わせて頂く所の日々という事になるのです。
 私はこの神習うという事を、今日程何かわからして頂いた気が致しますけども、神習、神習うという事はよく使う事ですけれども、今日程に神習うという事がこの様に有り難いことだということを感じたことはなかった。それもね私今度の夏期修行が始まりましてから、朝の四時のご祈念そして五時のご祈念、それからあの皆さん御一緒に修行なさっておられる一時のご祈念そして四時の午後四時のご祈念、
 いわゆる金光様お引けの時間のご祈念、ね、そのご祈念をこりゃ私くし大体一人でご祈念をさせて頂こうと、この夏期修行を境にさせて頂こうと、こう心に決めさせてもらってさせてもらっていますから、ここでの修行生家族の方達、まあ殆どだけでございますけれども、本当にあの静かに静かに、また朝のご祈念とは違った意味合いでのご祈念を、日々させて頂いているんですね。
 所謂あの金光様のあられ方をね、いわば神習しておるわけです。神習と気付かなかったけれど、ははぁ是が神習だなあと思うんです。ね、私共が一番存じあげておるのは三代金光様、そして現四代様ですがね。その三代様が、三代様がもう四時にきちっと御結界をお立ちになる。朝の四時に御奉仕が始まって、そして午後の四時にはお立ちになる。そしてご神前にお進みになって、そして静かに心中祈念をなさる。
 その金光様がなさる私は、この朝の四時のご祈念でも、それを実感したんですけれどもねえ。はぁこげな有り難いご祈念を、どうして今までおろそかにしておったのだろうかと、とてもそげな事はできんと思うておった。四時のご祈念てんなんてん、それは出来ない、普通の者じゃ、あれは金光様のご祈念であって、自分のじゃ出きんと思うておったけれども、ああいう様うなチャンスを頂いて。
 四時のご祈念が奉仕されるようになったら、もう本当に現在私が三時半から四時迄のこの時間の楽しさというか、有り難さというかその雰囲気というのはとてもとても、私の一生からもうおそらくこれを取り除くという事はできないだろうと、こう思う程に有り難い。もうご祈念の前から神習する神習うという事は、こんなにも有り難い事だという事を分からして頂きよる。ね、
 金光様のお手代りだとお手代りだといわれる、ならお取次をする先生がと言われるようなおかげを頂きながら、どうしてこれが出来なかっただろうかと思うのです本当に。あの一時間のご祈念は、もう本当にそりゃもう有り難い。そしてからいわゆる形の上でですねえ、金光様のご祈念をこうやって頂かして頂いて、金光様と一緒にご祈念の座につかせて頂いておるという事も有り難い。
 「は、今、金光様がご神前に額ずかれただろうと」こう思われる、その時間に額ずくという事が有り難い。祈りの内容こそ違えです、そのご祈念にいわば合わせて、祈らせて頂いておる自分が有り難い。ね、そしてそういう形の上の神習、その神習わせて頂いておるということがです、時々ね、金光様のお心の状態というのはこのようなことではあるまいかと思わせていただくような有り難いものすらがこれに通うて来る。
 不思議ですね、そういうお蔭を頂きながらもですね、頂きながらもまあだ気がつかなかった。金光様が四時におひけになって、四時にご神前に出られるという事。それをそんなに有り難い金光様の真似だけでもすればどげん有りがたくなることが分かっておりながら、それが出来ていなかったという事、それはただ拍手してお礼をするだけはあのいたしましたけれども、いわゆるあの金光様の真似とでも申しましょうかね。
 心中祈念を静かに静かにさせて頂くというような事はこの夏期信行が始まってから初めてでございます。しかもこれを日々させて頂くというのです。そしてから私が思うんですよね、これは朝の四時のご祈念とはまた違った、金光様が四時のご祈念、あの四時におひけになって御神前に座られてご祈念をなさる。ね、その時のお心がですね、何か知らん私に交うてくるような感じがするのですよ。
 ほんとに有り難いとにかく真似せにゃいけんということですね。いや真似というとおかしいですけどもいわば習わなければいけない稽古しなければいけないという事です。お互いがね、もう本当に信心ばかりは割り切ったんじゃでけませんね「もう自分はこれだけの事がでけとるから、もうはこれで事済んだ」、いわゆる自己を肯定しないでの生き方というのが本当に内容になからなければ駄目です。
 そこでそのまあなら皆さんの場合にですね、これは皆さんの場合でけんでけんこともなかろうけれどもです、皆さんには生活がある。私共には手代り、金光大神の手代りとしてのこうした御用があるから、金光大神のお手代りとしての真似方だけなっとん出来なければ、いけない事がわかるのですけれども、なら皆さんの場合にはそんな訳にはいかんでしょうなあ。生活が掛けられておるのですから、ね。
 朝の四時から夕方の四時まで金光様の真似をする訳にはいかんのですから、そこで金光大神が教えた事を違わぬ様にという所にね、神習う焦点が置かれなければならないという事なんですよ。ここ皆さんどうでも私共は他の信心じゃない、他の信者じゃないのです。もうどこまでも金光様の信奉者であり信者である事をですね、まず思わせて貰うて、ね、何々様が教えなさった事じゃない金光様が教えられた事をです、ね、
 身をもって又は心をもっ神習わせて頂くという生活こそ信心生活であるという事をです、分からなければ行けません。ね、そして私が体験させて頂きよる事。ね、朝の四時のご祈念に始まって午後四時のご祈念をさせて頂くようになってから、又さらにそこん所の神習うという事の意義をですね、私は実感しております。これはとても夏期修行が終わったからというて恐らく。
 午後四時のご祈念はもう抜きには出来ないことになって参りました。私の生活、私の生き方の中から。これは例えていうならばお茶をする人、お花をする人、それが段々始めの間はぎこちなくても稽古が段々積んでいくうちに、お花の心が分かるようになり、段々極めて行くうちにお茶の精神が段々身についてくる様なもんじゃないでしようか。信心も、ぎこちないながらもね、
 金光大神の言われる事を違わぬ様に守っていくという事は、それがそのまま信心の稽古であり、その守っていくという事の中には、いかにもぎこちない事でありましょうけれども、守って行っておる内に金光大神のお心が交うて来るのじゃないでしょうか。そこにです私共は「まさかの時には金光大神」と、是はまさかの時だけではない何時もがです、おかげの受けられる私であるおかげになって来るというふうに思うのです。
 そこで皆さんなら金光大神はそこの所を具体的にどう教えておられたかとう事を御理解七十九節で分からして頂きたいと思うですね。御理解79節私は大体根が商売人ですから、やっぱり商売に対する御教というのは本当にないですもんね。これ一節ぐらいでしょううね。けどもこれは商売であろうが百姓であろうがどういう御用に携わっておる者であろうが、これはその精神は同じで御座いますからその積りでどうぞ頂いて下さい。
 金光大神の言われる事を違わぬ様な実際のこの生活の面ね、今の四代金光様がおられます、仰言っておられます、ね、名々生活の現場に於いてとこう仰言る、ね、それぞれの生活の現場に於いて、ね、実意のかぎりを尽くさせて頂こうとこういうのですよね。御理解79節「商売をするなら買場売場というて、元を仕込む所と売り先とを大事にせよ。人が口銭を十銭かけるものなら。
 八銭かけよ。目先は二銭損の様でも、安うすれば数が売れるから、やはりその方が得じゃ。体はちびるものではないから働くがよい」このもうここの全てをひとつ分からにゃいけないですね。売場買場元を仕込む所、ね、売り先を所謂仕入れ先とお客さんを大事にせよというのですよ。人が十銭かけるものなら八銭かけよと仰言るのですよ。所が私共長年何十年信心してそしてお商売して来たんですけれども。
 金光大神の仰る事をひとつも守ってなかったんですよ私は。それどころか人が十銭で売るものなら十一銭で売らな気がすまん、それをおかげと思うとった本当です。これじゃ本当の成功にならなかったはずだ、成就にならなかった筈だとこう思うです。その代り余分に儲かっただけお供えする、まあそういう所で少しはこうそう言う事を神様が喜びなさる筈がないですね。
 「百円のもんですけれど、神様どうぞ百五十円に売らして下さい、その代わり五十円はあなたに差し上げますから」。さあ神様がお金が欲しいと仰言るならね、それでもお許し下さるかもしれませんけれども、それでもう事済んだ、もうそれでこう罪滅ぼしは出来たごと思うとる。ね、成程そういうような信心もないじゃないですね。そういう風にお蔭を頂ける場合もあるですよ。そういう生き方で。
 けども根本が間違っておる、根本が金光大神の仰言ることとは反対になっておる。ね、これでは所謂まさかの時に私はお蔭が受けられないとこう思うんですよね。ここの目先が、目先は二銭損のようでもという所が簡単に仰言っておられましょう、これが実は難しいですもんね。ほんなことみすみす二銭儲かられるとを損するのですからね、損するというが、おろ儲かっとこうというのじゃけん、やっぱ難しい事は難しいです。
 「体はちびるものでないから働くがよい」という所も中々ですね、私共大体が不精者の生まれ、生まれつきですから中々その出来るだけ楽をしてから、ね、人よりか余計儲かろうと言った様なずるい考え方を私はもっておった。朝から晩までヤアヤアやっておる者の気持ちがしれん、ちゃんともうその要領でいかにゃ、その辺は如才なくやっていくということ、そういう事だけに工夫をこらしておった。
 だからその段々お蔭を頂いてから、「ちびるものではないから働くがよい」という所をですね、段々信心が分からしていただくようになったらその事を修行と思わして頂く様になった。働く事を、ね、そのまま修行と頂くようにならせて頂いたら、働く事の有り難さも、修行の有り難さも一挙両得に分からしていただくようになった。これは段々私がお蔭を受けたこれは事実の事ですよね。
 けども中には非常に仕事が好きな人がありますよね。もうほんとに朝から晩までもう一生懸命身なり構わずに働く人があります。ね、そら成程自分の体がちびれるものではないから、けれどもただ働いただけではそればってんお蔭を受けられないですね。ね、成程働きますからせっせと貯める貯めあげることは出来ますかしりませんけども、さあそれを何年何十年ならたってみてから計算してみると。
 ガバーと所々で引かれておりますから、大して残ちゃいないです。だから働くだけではいけない、どこまでも金光大神の教えて下さることに違わぬように、という所が焦点で働かなきゃいけん。これはいかにも商売人だけに対するその御教えの様ですけれども、これはそれぞれの生活の現場に於いてこの事が私は適応させて頂くことが出来ると思うのですね。当てはめて行くことが出来ると思うんですよね。
 それが信心生活なんです。それが皆さんの場合は神習う事になるのです。そしてですそれは目先二銭損の様であっても、一生懸命働くという事はきつい事であっても、その後にです、成程、金光大神の仰言る通りに働いておればこういうものが心の中にも与えられるか。?の上にも与えられるという事になって、その働く事にも二銭目先が損の事をさせて頂くことも有り難い事に気がつくんです。
 ですから皆さん、本気でこの辺の所にふん切りをつけての信心生活が出来るようなお蔭を頂かなければいけませんです。どうぞ皆さん商売をする人も本気でひとつ、今日帰ったら本気でひとつ正札を入れ変えるくらいの気持ちがいるです。本気で働かして頂くという事をです、ね、そのまま修行とさせて頂いたら私の様な無精者でも、働く事の有り難さが段々わかって来るようになったんです。
 信心生活とは、教祖金光大神様の御生活態度というものを、私は神習わせて頂く事だ。その御生活態度というものが、私はこの御教の中にあるとこう思うのです。天地の親神様も又、金光大神の言う事を違わぬようにと、こう言うておられるのですから。ここん所を「金光様ならどうなさるであろう、どう思われるであろう。」という事はまあ分からんでも、それが形の上でも真似させて頂いておるうちにです。
 私が最近朝の四時のご祈念、又はつい最近初められた四時の心中祈念というものがです。はぁほんとに金光様の、あの四時のご祈念というのはこういう御精神ではなかろうかというものがこう交うて来る有り難さを、私が体験しております。神習うという事はそういうような事なんだ。私共が日々、金光大神の、あられ方を神習わして頂くという生活こそが、お道の信心でいう所の信心生活だということをです。
 お互いが分からして頂いて、その信心生活から外れたんでは、それはお蔭は受けたにいたしましても、何十年たってみてたいしたことはない、というような事になったんでは馬鹿らしい話ですから。神習わせて頂く所の有り難さというものを、体験させてもろうて、ね、いよいよ天地の親神様の御機感に叶うた氏子、身代も人間も健康も、ね、続いていくようなお蔭をいただかしてもろうて。初めて金光様の御信者という事が言えるのじゃなかろうか、とこう。
 金光様の御信者とは、他の何々様の信者じゃないという事を、ですから金光様の教えられた、金光様の身をもって示された所のものを違わぬように頂いていくという工夫、初めの間はぎこちない。けれどもそれが稽古されていくうちにです、お茶やら、花やらの心やら精神が分かってくるであろう様にです。教祖の神様の御信心のいわゆる御精神というものが体験の上から。又は心の上に体の上に。
 顕しそれを頂いていく事が出来る様になる。そういう例えばなら生き方あられ方をです、具体的にこれは商売人に示されたところの今の御理解などをです、これは商売人だけの事ではありません。お互いが、ね、そのような生活態度を身につけていくおかげを頂かせてもらううちに、本当の金光様のお心、御精神というものが分かる事を私は確信いたします。ね、本当の意味での信心生活を今日は聞いて頂きました。
   どうぞ。